女性の深層心理に関する文化人類学的考察

1997.12  K.T
 今年の夏は例の「臍だしルック」なるファッションが対流行した。おかげで筆者も、久しぶりに心行くまで「生きている」 ことの素晴らしさを楽しませていただいた。あの醜悪なる贅肉とは無関係の、いわゆる若くてピチピチしたギャルが、かわいい「お臍」をこれ見よがしに 露出させて涼しげに闊歩する様は、ややもすれば「生きている」ことに対する閉塞感を感じがちのワレワレにとって最高の夏のプレゼントであった。

 ところがこの「臍だしルック」に関し、筆者は実に不愉快極まりない経験を体験させられると共に、未だもって癒されない心の傷を負うハメになったのである。 より正確に言えば、女性の持つ矛盾に満ち溢れた奇々怪々・摩訶不思議なる深層心理を垣間見たと言った方がいいかもしれない。本文は、筆者の経験した、 かかる惨めなる体験を通じてはからずも改めて認識することになった女性の深層心理に潜む超論理的不可思議に関し、文化人類学的視点から考察を行わんとするものである。

  ことの始まりは今年の夏、暑さもピークに達したある8月の昼下がり、所は新宿初台駅近く、ITと文化の殿堂、かのオペラシティーのプロムナード。 そこで筆者はかの「へそだしルック」のおネエさんと遭遇したのである。年のころ20歳前後のピチピチ茶髪嬢が自慢のお臍を誇らしげに誇示しながら歩いて来た。 当然のことながら筆者は立ち止まり、その可愛い剥き出しのお臍をジーッと凝視することになる。

 と、その時である。そのお嬢さんから予想もしていなかった、 実に聞くに耐えないような罵声を浴びせかけられた。「なに、ジロジロ見てんのよ。このスケベおやじ!」と、きたのである。なにジロジロ見てんのよと言われたって、 あなたのお臍は人に見てもらいたくて露出してんでしょうに。「見てください」と、明確なる意思表示のもとに公開されているモノを、ご期待にこたえて眺めて愛でて何が悪い。 無視して目をそらせる方がズーッと失礼だ。女性の心理の奥に潜むまことに非論理的、不可解極まりない側面を垣間見た感じであった。ここから筆者の女性心理に関する哲学的思索、 つまり「女性の深層心理に関する文化人類学的考察」が始まるのである。

 そもそも不特定多数の公衆に見てもらうことを前提にした美的陳列物は、有料・無料を問わず何がしかの関心を示し、 時間が許せば閲覧するくらいことをしてあげるのが常識というものであろう。美術館、ファッションショウ、お店のショウウインドウ、演劇、等々。 それこそ数え出したらキリがない。中には手にとってジックリ見てくれることを期待している奇特な出し物も少なからず存在する。

  一方不特定多数の公衆に見てもらうことを明確に拒否している世界も、当然のことながら厳然として存在している。身近なところで言えば用を足している姿、 家庭でリラックスしている姿等々、いわゆるプライバシーにかかわる所がそうであろう。その他、お固いところでは企業秘密に係わるハード・ソフト、 軍事施設、公判中の裁判所等があげられる。但しこれらの秘匿物は、程度の差こそあれ公衆の視線からは物理的に明確に隔離されており、 法的にもキチンとガードされている。その禁を犯して無理やり覗くと当然のことながら処分の対象になる。そもそも公開拒否を明確に 意思表示してあるこの種の世界は、覗いてはいけない対象物であり、覗かないのが常識なのである。

 この程度の常識は、長年人生の試練を くぐって来た筆者であれば十分わきまえているつもりである。さればこそ件の茶髪嬢のおへそについては、いわゆる公開陳列物と判断し、 あたかも名画を鑑賞するが如くその趣旨に沿って凝視したわけである。それを「スケベおやじ」とは!この筆者と茶髪嬢との認識の違いは 一体どこにあるのであろうか。彼女の論理によれば、かの問題の「お臍」は、公衆の視線を否定する秘匿物であったということになる。 しからば秘匿すべき対象物をなぜ公衆の面前に敢えて露出しようとするのか。これは筆者から見れば明らかに論理矛盾であり、 理が筆者にあることは誰から見ても明らかなことであろう。不可解なるはかの茶髪嬢である。

 話は変わるが、東北の山奥に行くと今でも混浴などといった 日本古来の立派な風習が残っている秘湯がある。心地よい湯船の中に長々と身を横たえ、世間の俗事から超越して大自然を満喫する入浴は、正に秘湯ならではの 醍醐味である。その混浴で常々不思議に思うことがあった。若くてピチピチしたお嬢さんたちは、あの芸術品とも言うべき素晴らしい肉体を、なぜ大げさに秘匿 しようとするのであろうか。恥ずかしい・・。そう、「恥ずかしい」ということがその理由の様ではある。しかしながらどこまでも論理的一貫性を追及する筆者、 「恥ずかしい」と思うその深層心理に昔から強い論理矛盾を感じていたのである。 そもそも筆者等と同様、人生業を長く積み重ねてきた元ギャル達に注目していただきたい。 一般的に言って彼女らの肉体的形状は、長年の風雪にもまれてかっての「美術品」とはいささか縁の薄い存在になってしまっている。だけども彼女らはそれを「恥ずかしい」 とかなんとか、スケールの小さいことはあんまり考えない。なにを隠すということもなく、実に屈託無く正々堂々と一緒に混浴を楽しんでくれる。我々もその「元美術品」 をいたわりこそすれ、まず鑑賞の対象とするなんてことはしない。

 ところが「ただいま美術品」の真っ只中にいる今ギャル嬢達はどう言う訳かその素晴らしい 芸術作品を隠したがる。一番綺麗で、見た人に憧れと感動の念をいだかせる「今ギャル」達が、その素晴らしい自らの肉体を秘匿し、「美術品」的存在から遠ざかった 「元ギャル」達が秘匿にそれほど拘らないとは一体どうしてなんだろうか。しからばどこに出しても恥ずかしくないあの素晴らしい芸術作品を公開することに対して 「恥ずかしい」と感じる感覚は、一体どこから来るのであろうか。

 またまた話が変わるが、銀座で今をときめく若いお嬢さんたちとお酒を飲んだ時のことである。 若い女性に共通の、このやたら「隠したがる」不思議な習性について質問したことがあった。要領を得ない回答が大部分であったが、その中に筆者の左脳を刺激するような 回答が一つあった。「だって、見られたら口惜しいジャン」。この言葉を聞いたとき、長年思索に思索を重ねてきた筆者の脳裏に突然一筋の光明が射したのである。 この告白こそ、通常は固く鍵のかかっている女性の深層心理から飛び出してきた本当のホンネに違いない。察するに「口惜しい」と思う感覚が無意識の自己弁護心理の影響を受け、 いつのまにか「恥ずかしい」という感覚に転化されて行っているのではないだろうか。高い飲み代を払った甲斐があったというものだ。

  若い女性の深層の中には、この見事な姿態を特別に契約した人以外にタダで見せるなんてトンでもないことだ、実にもったいないことだ、 という無意識の心理がどうも存在しているようだ。しかしタダで見せるのがもったいないというのであれば、その逆としてお金を払えばいいと言う事か。 そう言えば確かにその種のビジネスは存在している。あまり信じたくない深層心理ではあるが、一面の真理であることは間違いないようである。

  かかる考察に基づけば、美的価値の極めて高いこの素晴らしい肉体をタダで盗み見されるなんて「クヤシー、許せない!」という「今ギャル」 嬢達の心理は極めてよく理解できる。「元ギャル」嬢達について言えば、美術品的価値が下がったことを認識することにより、「口惜しさ」の感覚から遠ざかった、 一種の諦観みたいなものが滲み出ているのかもしれない。

 「臍だしルック」に触発されてスタートした筆者の「女性の深層心理に関する文化人類学的考察」は、 最終的にはいささか信じたくないような結論にたどり着いてしまった。しかしそれが真理であれば、甘んじてありのままに受け入れざるをえない。 真理の追求は、時として人に辛く大変な真理的重圧を課すことがあるということは、古今の学者達が証明している所である。 「それでも地球は動いている」。これは、時の権力の前に自説を曲げざるを得なかったガリレオの言葉である。いかに辛い結論であっても、 いかに世論に逆行する説であっても、真理は真理である。このガリレオの言葉を引用しながら本考察を締めくくることとする。

本文は私の尊敬する大先輩(K.Tさん)が1997年に執筆され、
私に感想を聞かせてくれといわれたものです。この掲載については、
御本人の了承をいただいておりませんが、私からの感想として掲載させていただきます。
いいですよね、K.Tさん?